rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

思想

「養老孟司の人生論」(PHP文庫)

ランキング参加中雑談・日記を書きたい人のグループ 「養老孟司の人生論」(PHP文庫)という本を読んだ。養老さんの本はだいたい読んでいるのだが、読んでいない本である。文庫本が出たので読むことにした。 養老さんの人生でなにから影響を受けたかを示し、…

イデオロギーとはなんだったのだろうか

ランキング参加中雑談・日記を書きたい人のグループ 東西例冷戦時代、ソ連、中国、東欧諸国は共産主義、アメリカ、ヨーロッパ、日本は資本主義、ということで政治経済体制の違いで軍事的に対立していた。それぞれの政治経済体制には、イデオロギーというもの…

社会共通資本

ランキング参加中雑談・日記を書きたい人のグループ ここのところ、経済学者の宇沢弘文氏(1928~2014年)のことが気になっている。「社会共通資本」ということばもは彼によるものである。この考え方や役割を、経済学史の中に位置付け、農業、都市、医療、教…

自分では決められないこと

生まれることと、死ぬことは、基本的には自分で決めるとは出来ない。人間以外の生物は、それは自明のこととして受け入れており疑問を抱くことはない。人間という生物は、一定以上の知能を持ってしまったが故に、なぜここに生まれてきたのか、なぜいろいろな…

知らないことを知らないこと

自分はいつまでたっても知識欲が絶えない。暇な時間があれば、本を読み続ける。いろいろな分野に興味があるが、ある本を読めばそれに関連する本を次に読む。また、気持ちを変えてまったく違う分野の本を読むこともある。 いつも思うことだが、いろいろな知識…

既成概念について

既成概念というと、そのはなからわるいことを想像してしまう。しかし、既成概念がないと世の中は成立しない。家族から、地域社会、国家、国際関係まで、内部の相互の関係性が既成概念として存在しないと世の中はうまく回らない。これはよい既成概念である。 …

意識と無意識など

いま、養老孟司さんの本を読んでいる。生きている人と亡くなった人、都市と非都市、人工と自然、などを対比しながら、意識と無意識について語られている。こうした2つに分離したものが、いいバランスで共存させることで豊かな社会をもたらすことができるとお…

大津波と原発

先週土曜日、夕方からの工事契約に行く ために吉祥寺で待ち合わせをした。予定 より30分も早く着いてしまったので近く の本屋さん「ブックス・ルーエ」に寄る。 入ってすぐ、読んでくれ〜と呼びかける 本があった。その本が「大津波と原発」 (朝日新聞出版…

考え方など・・・

まちづくりに関わっていると、大きく分けて 2つのタイプの困った人に必ずといっていい ほど出会うことになる。 まず、実行不能な大構想を話す人。大構想 を夢想することはわるいことではない。問題 はそれをどのように実行できるかである。 大体、どのように…

人と世界のつながり

ふと普通に生活しているときに、どこからくるの か分からない、不可解な息苦しさに襲われる ことがある。フィジカルな病気ではなく、意識的 な問題である。 実際、人と世界のつながりは基本的に五感 のみに頼っている。その不可解な息苦しさは 五感に対する…

分かるということ

これは、以前にも書いたことかもしれないが、 自分が再確認するために書く。 分かるという言葉は、文字そのものが示すよう に、分けること、つまり分類することである。 目の前の複数の対象を相違点をもとに分類し、 その世界をつかむことが分かるということ…

人間のため、自然のため・・・

かつて、人間が神々のしもべであるという 確固たるヒエラルキーが存在していたときは、 神の監視のもと、人間と自然は何隔てること なく共生していた。 神の監視を離れて、人間が意識を獲得した 当初は、自然をコントロールするなど大それ た考えなど持つす…

生きる意味を見つけよと言われるが・・・

建築の設計をしていても、なぜ人は生きて いるかということを考えざるを得ないこと がある。 そもそも人生に目的などあるのだろうか。 種の保存から考えると、種としての人間の 生命を保ち続けること、そしてより進化 させるということが、種としての目的な…

非ヒューマニズム

社会と軋轢を生みだしているものをよ〜く観察 してみると、ヒューマニスティックな思想に 基づいているものが多いように思う。 ヒューマニズムとは、文字通り人間中心主義、 人間を中心にすえてものごとをとらえる世界観 である。それは人間のためというのが…

なにが分からないかが分かることが、分かること

人間は何でも分かろうとする動物である。 でも、この広大で詳細な宇宙をつかまえ、 理解することは不可能である。 ましてや、一人の人間が一生の中で分か ることなど高が知れている。 ではなにができるか。なにが分からない かについては分かることができる…

なにを信じればいいか

10代、20代のころは、自分の外部になにか 信じるべきものがあると思って、本を読み、 絵をみて、音楽を聞き、芝居やダンスを観て きた。 30代になって、外部には信じるべきものは ないことに気付いた。ならばどこにあるのか。 自分の中にも何もない。 自分と…

ヒューマニズムを疑え

以前から、ヒューマニスティックなものを胡散臭いと 思い続けていた。 イカとタコに興味があった。どちらかといえば、イカに 対する興味が大きかった。それらを比べると、方向性 があること、群れになってたおやかに泳ぐ姿の不思議さ、 などにおいて、イカに…

「自分」なんてもの、ないかもしれない

ものごとを深く考えていると、「自分」なんてもの、 ないかもしれない、と思うことがある。 学校や親は子供たちに、自分をしっかり持ちな さいという。でも、自分ってなんだろう。 自分とは意識である。つまり、脳が自覚している ことである。自覚していない…

言葉というもの

言葉はどのように生まれたのだろうかと考える。 農耕や狩をしているときは、ものを指さしたり、 うなずいたりすることで、意思は伝え合える。 しかし、畑や狩場から住居に帰り、明日の作業 についてコミュニケートするには、指すべきもの がないので、絵を描…

知は未来への希望をつくりだすものではなかったか

人文科学にせよ、科学にせよ、学問という ものは、過去から現在までの事象を、分類 ・整理・分析することにより、現在・未来のこと を「希望をもって」考える、というものでは なかったか。 それにしても、いまの学問は、現実から 遊離してしまっているもの…

リスペクト

イビチャ・オシム著「日本人よ!」(新潮社)に 興味深い記述があった。リスペクトということば についてだ。弱いチームでもどんなチームでも、 リスペクトしなければいけない。このことばには、 尊敬という意味ではなく、「すべてを客観的に 見通す」、「客…

尺度について

世の中には、さまざまな分野、さまざまなレベル で、さまざまな尺度がある。 強い弱い、大きい小さい、広い狭い、深い浅い、 高い低い、美しい醜い、優れている劣っている、 良い悪い、賢い愚か、・・・・・などなど。これらは、 人間が自分の世の中での位置…

自分と世界をつなぐもの

きのう、暑い中、道を歩いている途中で、こんな ことを考えた。自分と世界を結ぶもののなんと 頼りないことか、というようなこと。 よ〜く考えてみると、五感のみでしか、人間は 世界とつながっていないのだ。 むかし、三浦半島の火力発電所が近くにある海 …

世界認識への欲望

人類はなぜ進歩を求めるかと考えてみたとき、 ほとんどの人間の行為は世界認識への欲望に つながっており、その欲望が進歩を求めている ことに気付く。 学問は、ほとんどのものが世界を認識理解する ためのものであろう。 工学技術にしても、乗り物は短時間…

思考をフラットにする

ブレインストーミングというミーティングの やり方がある。 議論の核心ではなく、周辺のことで思いつく まま、面白おかしくあたまをハイにして、 固定観念でガチガチになっていた思考を ほぐし、よりクリエイティブな発想を見つ けるためのミーティングの方…

眼に見えているものでさえ「イマージュ」である

「イマージュ」といえば、写真、映像、鏡像、などを 思い浮かべる人がいるだろう。 眼に見えているものは、ふつう人はみな現実だと 「思い込んでいる」。 眼に見えているものとは、周囲にある物体に光が 当たり、眼のレンズを通して、網膜に照射され、 それ…

意思のベクトル

きのう(10/30)の「ほぼ日刊イトイ新聞」のダーリン コラムで糸井重里さんが、「深いって、いいことか?」 という文章を書かれていたが、私もなんとなくいいこと だとされていることに、無意識ながらも疑問を感じて いた。 いいこととされていることには、…

思考のレンジとレイヤー

設計したり、ものごとを考えているとき、局所的な ことにこだわりすぎて「ミニミニスパイラル」に 陥ってしまうことがある。 そんなときは、思考のレンジを意識的に広げて みることが必要だ。 それでもだめなら、異なるレイヤーで考えてみる。 局所的に行動…

コントロールできないもの

近代社会や近代科学は、世の中にコントロールできない ものはないという前提で社会や理論をつくり上げてきた。 しかし、世の中は、コントールできないものだらけで ある。まず、自分のからだでさえ支配できない。脈拍も 呼吸も自らコントロールして動かして…

視るということ

子供のころ、小学校高学年だっただろうか、 自分に視えているものと、他の人に視えているものは、 もしかして違うのではないかと考えたことがあった。 いま考えてみても、厳密にいえば、視ている個体が 異なるのだから、視えているものは違うのは当然だ。 子…