rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

「器」について

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以前にも書いた記憶があるが、もう一度書いておく。「器」。広辞苑によると、「ことを担当するに足る才能。器量。また、人物の大きさ。」とある。

 

頭の回転がいいだけなら、器という言葉は使わない。器とは容量の大きさを示している。外に対して大きく開き、さまざまなことに対応する能力を持ち、それらを運用するに足る記憶力を持ち、その上多くの情報を一度に処理することができるという意味ではないだろうか。

 

人は、いろいろなことに意識的に生活していないと、知らぬうちにだんだん視野が狭くなっていく。意識して視野を広げておく努力をしていないとどんどん閉じていってしまい、その先には思考停止が待っている。

 

人にはそれぞれの器量がある。その器量を最大限に開き、外部から多くのものを吸収できる態勢を取っておいた方が、将来的により多くの人とコミュニケートしおもしろい環境をつくっていくことができる。多くの人がこのことを意識して生活していると、よりよい社会が広がっていく。

 

「器」という言葉は、単純に頭がいいとか、回転が速いといっただけではない全人間的な表現が入っているので、とてもおもしろい。社会に大きく開き、さまざまな人たちの関わって、これからも生きていきたいと思う。