rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

先生から学んだこと


私がいまの職業につく遠い原因をつくってくれたともいえる先生が二人いる。
小学校5・6年の担任のF先生と中学校2年の担任で社会科のH先生だ。


F先生は、おそらく小学校の中でもかなり変わった先生だっただろう。
図工の時間は、とくにエキサイティングな場だった。
ふつうの目でみると、こりゃ単なるへたくそだろうと思われる絵を
きみの絵はピカソに似ている、物体を多面的にとらえている、
この曲線も素晴らしい!!と誉めたてる。
また、あるものはゴッホに似ているといわれ、ゴッホのタッチを
マスターしはじめる。
算数の時間には、いまきみたちが勉強している問題は中学では
連立方程式、高校では二次関数で解けるというふうにいま勉強して
いることがどういう位置付けにあるものかを教えてくれた。
社会の時間には、中共という言葉を使いながらそのとき進んでいた
文化大革命のことも聞いた。
彼は休み時間に講堂のピアノでショパンを弾いていた。


H先生は、教わったのは、1975年ごろだったからまだあまり海外旅行に
行かない時代に東南アジアの各地を旅行されて体験談をいろいろ聞いた
記憶がある。生きた地理の授業である。当時フォルクスワーゲン
乗っていたからかなりの洒落ものでもあったのだろう。
学生時代のヒロポン話もしっかり記憶に残っている。
授業はと言えば、地理にしても歴史にしてもなぜそうなっているかを
推論して発表するというもので暗記物だと思っていた社会科が考える
学問であることを教わった。
中世・近世の、風と貿易の関係を推論する授業は今でもはっきり覚えている。
H先生に当時、きみはきっと漫画家になる予言された。
考えると建築家は漫画家に似ているかもしれない。


この両先生に共通する点は、いま学んでいることの位置付けやものごとの
考え方を教えてくれた先生だったということだ。
先生が教えることができるのは、この一点に尽きるのではないだろうか。


そのころ、将来なりたいものであった、考古学者、ロケット開発者、
建築家というみちを示してくれたのはこの両先生であった。


残念ながら、お二人とも亡くなられてしまった。