rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

「空間」はそんなにむずかしくない

(ザ・ハウスのメールマガジン掲載記事の転載)


建築家は訳のわからない「空間」ということばを平気で連発する。実は、
思われているほどむずかしいものではない、生活の中にふつうにあるものだ。


空間とは、その字のごとく、「もの」と「もの」、「こと」と「こと」の間(空)のことで
あり、それぞれの「もの」や「こと」の特色を生かしながら関係付けつなげていく
ことによって生まれる魅力的な関係性のことである。ヨーロッパのゴシック教会で
神と人のつながりを教会の空間が取り持っていることを想像してもらうと分かり
やすいかもしれない。要するになにとなにをどうつなげるかということだ。


一般に、住宅内部の部屋や廊下・階段などの関係性が空間と呼ばれている。
これらのつながりを空間的により豊かにすることによって、開かれたな空間、
包まれる空間、人と人との間の親密な空間などをつくりだすことができる。


だが、空間は建物内部のみにあるものではない。たとえば、窓からお隣の
庭の立派な樹木が見えるとする。木が見える部屋とその木の関係が窓に
よって美しく関係付けられていたら、そこにも空間が存在しているし、道路に
面してある縁側が住まいとまちを良好に関係付けているとしたらそこにも
ある種のまちとつながる空間がある。


このように住宅内部の関係のみならず、建築的空間は自然やまちや社会
へのつながりとも大いに関係がある。いま、日々の生活の中でもっとも必要と
されているもののひとつがこの「空間」だと思う。住む人の気持ちを豊かにして
くれるものだ。だからこそ、住宅にはいい空間が必要だ。その空間を考え伝えて
いくことが建築家の仕事なのである。


日々、こんなことを考えながら、ビールを飲み、村上龍村上春樹の本を読み、
ジャズピアノを聴き、サッカーを観ている。


サッカーで点が入りそうな時のワクワク感が好きだ。そこには、ボールと選手
たちの動きと得点の入りそうな予感との間に神が存在するかのような空間が
生まれているからだ。