rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

「待つ」ということ


きょうは午前中、杉並の住宅の現場。


現場をはけたあと、お約束どおり高田馬場に途中下車
して、「新雅」で半チャンラーメンを食べ、「芳林堂」
書店により、ほしかった本、前から気になっていた本、
計3冊を購入。その中の1冊が、<「待つ」ということ>
という本。鷲田清一の本の表紙には、よく植田正治
写真がよく使われているところも気になる。


快住計画のブログに、「あせらず時期を待つ」という
文章を書いた1週間後に新聞に鷲田清一著の<「待つ」
ということ>という本の広告が出ていた。


このところの、インターネット、コンピュータ技術、
携帯電話などの通信技術の進歩(?)により、待つ
ということをしない、あるいはできない社会が定着
しつつある。


つい、20年前は、携帯電話もなく、事務所や現場
にもFAXすらなかった。現場との図面のやり取りは、
郵便で行われ数日のタイムラグが必ずあった。
アパートにやっと固定電話を入れて数年という状況で、
電話がつくまでは、ときどき電報が親戚や親から
来ていた。


図面も手描きで、時間がかかり、描いている最中に
様々な妄想が沸いてきてなんども修正しながら、
穴が開くくらい描き直していた。アイデアをいったん
寝かしておくという、そんな余裕があった。いまは
CADで図面を描いているが、醸成するという手描き
時代の図面感覚は喪失してしまった。代わりに違う
ものを手に入れたような気がするが、それが何なのか、
いまだ認識するには至っていない。


携帯電話が普及して依頼、いつでもどこでも用件が
追いかけてきて、居留守も使えず、逃げ場を失った
感がある。


状況が変化すれば、得るものがある代わりに何かを
失う。また、失うものがある代わりに新しく得るもの
もある。そんなパラダイムが変化しないと認識できない
ものがあるはずだ。


そんないまだ認識できない手に入れたものにも思いを
馳せながら、腑に落ちるまで待つ、機が熟すまで待つ、
といった、からだにしみ込んでいくのにかかる時間に
ついて、もう一度よ〜く考えてみる必要があるのかも
しれない。