rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

ものは計画通りに使われないこともある


建築もそうだが、まちの構築物も計画された通りに
寸分違わず使われる確率はかなり低い。


写真は、豪徳寺駅前の広場だが、つくられた当初は、
なんて使われそうにないものをつくってくれたかと
思っていたのだが、いざ出来て時間が経ってみると、
使う側が広場の形状や機能に合わせて、いままで
すでにあったもののように上手に使いこなし始めて
いる。


建築でも設計で意図しているようには使われない
こともときどきある。とくに若い頃に設計したもの
はその確率が高い。


動作なり使い方を細部まで想定して計画された建築
は、実際にはそのように使われないことがときどき
ある。若い頃は、かなり細かく使い方を決めて設計
していたので、その傾向が強いのだろう。最近は、
こう使っても使いやすいが、違う使い方をしても
使えるように余裕や余白を残しておくようにしている。


もちろん、使われ方を想定するのは設計者の義務で
あるが、思ったように使われないこともあることを
想定しておくのもプロの仕事の一つだと最近は考える
ようになった。


人には、決められた空間をカスタマイズして、最適な
使い方を見出す能力がある。


使われ方を想定しながらもキチキチにつくりこまない
で、楽しみながら使い方を見出していける空間をつく
っておくこと。これも設計の極意かもしれない。


なんといっても、クライアントの方が何年か住んで
みて、住まい方や空間について発見されたことを
うれしそうに話されるのを聞くのが、設計者としては
いちばんうれしい。