ひと昔の、村上龍氏の小説やエッセイによく出て
くるフレーズである。
おそらく、多くの人は考えるのに使うのはあたま
に決まっている、と思っているだろう。たしかに、
あたまは考えるための器官である。そのために、
細胞が考えるのに適した構造に変化してきた。
しかしだ。からだのあらゆる部分が、もとは同じ
細胞からできていることを考えると、あたまに
ならなかった細胞も、考えることのできる器官に
なりうるような気がする。
たとえば、自転車に乗ることができるようになる
には、あたまでいくら考えてもできっこない。
練習して、乗れる感覚に一歩ずつ近づいていって
はじめて、乗りこなせるようになる。からだの
筋肉、骨、皮膚などのすべての細胞が、考える
ことによって、学習し、自転車に乗れるように
なっていく。
人間が、車を運転できるのも、からだのすべて
の細胞が考えているからできるのではないか。
建築を考えたり、感じたりするときも、同じような
ことがいえるかもしれない。あたまで考えても
優れた建築は構想できない。また、あたまだけ
では、優れた建築の空間を感じることはできない。
建築空間は、すべての細胞が考え感じることで、
つくりだすことができ、また、感じることができる
ものなのだ。