rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

コンセプトはどこからくるか


駆け出しの頃、建築のコンセプトは作者に
内在するもので、そうした内的必然性に
よって、それを具体的に建築に落として
いくものだと思っていた。


仕事をいくつかこなしていく中で、考え方
が少しずつ変わってきている。コンセプトの
原型のようなもののいくつかは自分の頭の
中に内在しているが、それぞれの建築に
すべて当てはまるような種類のものでは
ない。


たとえば、敷地を見るとき、敷地そのもの
は、なにか計画的意図がない限り、混沌で
あり、敷地そのものからはなにも見えて
こない。自分の中に、原型のようなものが
あれば、敷地の混沌の中に、それと類似性
のあるものが浮かび上がり、原型がかたち
となって投影される。そこに、コンセプトが
はじめて発生するのである。時々、私が言う
「敷地が呼んでいる」というのは、このこと
である。


また、計画的な側面から見ると、クライアント
の意思は、初期の段階では、混沌であるとも
いうことができる。混沌として矛盾した意図
の中に、同じように、自分の中にある原型
と類似したものを見つけていく。そうすると、
ここにもコンセプトが発生してくるのである。
これは、クライアントの意図を汲み取りながら、
建築家というフィルターを通して、建築化いく
こととでもいえるだろうか。


このように、コンセプトは作者の頭の中だけ
にあるのではなく、外部の混沌の中にある
薄い方向性のようなものと作者が同調する
ことによって発生するのである。つまり、
もともとはどこにも存在しないものなので
ある。なにかとなにかが出合うことによって
はじめて発生するものといった方が正確
かもしれない。


こうした諸行為の中にこそ、真の意味での
コミュニケーションの本質がある。