rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

芝居小屋で抽象について考える


きのうは夕方から、スタッフ4人と芝居を観に
いく。


芝居を観ながら、醒めたあたまで、こんなこと
を考えた。なにもメッセージが伝わって来ない
のはなぜか。彼らも精一杯表現しようとして
いるのは分かる。でも、何も伝わってこない。


まず、観客を受け入れる鷹揚さが足りない。
なにかを伝えたいと思うとき、相手がどういう
コンディションなのかを察し、相手はこれから
伝えようとしていることをどのように考えている
のか想像することからはじめる。その受け入
れる姿勢が感じられない。


つぎに、どのようになにを伝えたいかが見え
てこない。前にも書いたが人がなにかを伝え
ようとするとき、誰にでも分かるように一般化
するといった抽象化を伴う必要がある。それ
がない。なにかを伝えるために有効な構成も
なく、それに伴う展開もない。確かに、好意的
に観るといいところもないわけではない。でも、
表現者にとってもっとも必要なものが欠如して
いることは否めない。


建築においても、なにかを伝えるために有効
な空間や構成に関するコンセプトが必要だ。
コリン・ロウのいう「虚の透明性」という概念
はそれらを統合しうる概念なのだと思う。この
概念を軸に空間や構成についてはもちろん、
シークエンスについても説明できる。


なにかをだれかに伝えるには、抽象化という
作業が必要不可欠なものである。そのことを
肝に銘じて活動をしていきたいと思いを新た
にした一日であった。