rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

ふたつの「フツウ」


普通ということばは、いつもの会話でも、
なにか新しいことを始めようとするときなど
限定的状況下でもよく用いられる。


普通には、ふたつの使用法がある。


ひとつめは、世間に向けての普通。
なるべく目立たず、社会に埋没するためのもの。
この普通ほど、つまらなくおもしろみのないものはない。


もうひとつの普通は、個人個人が自然に思うことである。
各個人の身体になじみ、なにげなく入り込んでくるもの。
建築でいうと、クライアントの様々な思いを素直に豊かな
建築的・空間的に表現することが普通な行為である。
あるべき流れを流れとして認め、整流化することが
建築家の仕事である。世間へ向けての普通とは異なり、
ときにかなりラディカルなものにもなりうる。


私がいう、あるいは実践している普通は後者の普通である。
社会的な接点を失わない範囲で、もっと「フツウ」に
なってもいいと思う。そんな「フツウ」の建築をつくり
続けている。


みんなもっと、自然に楽しく生きられるといい。


●写真は、庭の山吹、深い黄色だ。