rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

自分に気付くことは難しい


自分で自分のことが分かっているという人は
信用できない。過去の自分については、いくら
かの分析ができるから、少しは分かることは
できる。


日々、未踏の新しい時間を生きているのだから、
それを分かるほうがおかしい。過去の自分で
あっても自分の歴史である限り、あるチョイス
がなされている。ある種の方向性については、
言及できるとは思うが、かなり難しいように
思う。


自分を客観的に見よと、賢人は言うけれど、
そんなことができるのは、よほどの求道者に
しかできないだろう。常人できるとすれば、
それは病気としか言いようがない。自分が
自分の新しい時間を生き、切り開き続けて
いるのだから、その自分を客観的に見極める
ことなどできるはずがない。


それほど、自分に気付くことは難しいことなの
である。ましてや、そんな自分に他人のことが
見えるはずがない。


そんな難しい状況に生きているのだから、人と
コミュニケートするのは難しい。でも、人は、
分からないからこそ、人とコミュニケートしたい
のである。分かっているのなら、コミュニケート
する必要はない。


自分も分からない。他人も分からない。その
ことを分かりながら人と関わり合うことこそ、
重要なのである。分かっているという勘違い
から、大体の問題は発生しているのが現実で
ある。


分からないからこそ、人に興味があるし、人と
コミュニケートしたいのである。