rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

自由と個人主義、そして責任


中学のころ、技術家庭のI先生が、自由の話に
からめて、個人主義は社会的責任を果たして
はじめて行使できるというようなことを言われた
ことが今でも記憶に残っている。


そのころ、男子生徒は校則で有無を言わさず
髪型は坊主頭と決まっていた。校則に書かれ
ていた「中学生らしい髪型」ということばに
胡散臭さを感じていた。このころ、はじめて
自由と責任について考えるようになった。
結局、髪型問題は、生徒会と職員会議の対話
で、中学生らしい髪型という条件付で坊主頭
でなくてもよくなった。学校の規律を自主的
に守るという責任を果たすことができてこそ、
はじめて行使できるのが髪型の自由であると
いう決着である。この自由の問題は、今でも、
自分の中で完全に解決しきれていないものの
ひとつである。かなり難しい問題である。


人間は、社会的かかわりを持つ限り、個人の
自由を行使するには、社会に対する責任を果た
した上でしか成り立たない。社会の秩序その
ものが乱れてしまうからである。


かといって、完全なる自由を求めるといって、
森に入っていったとしても、自然の摂理や、
動物界の掟を無視しては、自由に生きること
はできない。


不自由であることは、決して許されることでは
ない。しかし、自由を手に入れるのも決して
容易なものでもない。それをこころして、自立
した個人として、自分のためにもなり、かつ
なるたけ多く社会のためになることを行い、
より人々の可能性を引き出せる世の中にして
いきたいと、いつも、こころの中で思っている。