rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

カテゴライズされずに生きていくこと


人は、宇宙や世界を認識するために、種を分類し、
階層化して理解しようとする。これは、経済、文化
の分野でもそうだ。自分に関係する人に対しても、
分類しカテゴライズすることで自分の立ち位置を
確認している。だから、血液型判断が流行るので
ある。簡単で分かりやすいから、みんなそうする
のだろう。(決してこれを悪いことだといっている
訳ではない。自分もときどき血液話をする。問題
は生き方である。)


当然建築の中でも、なになに派というくくられ方で
ひとまとまりで理解されてしまうのは、その典型的
な例のひとつである。


かつて、重い建築がもてはやされたこともあるし、
フランス現代思想が流行った頃はコンセプチュアル
な建築に人気があった。そして、いまは、軽い状況
建築にみんなが向かおうとしている。時代のなにか
が人々をその方向に向かわせているのかもしれない
が、みながそれにならえ右をする必要はない。


どういった建築がもてはやされようが自分が目指す
建築を自然体でつくり続けていればいいのだ。もち
ろん、もてはやされたいと思う人はその方向に行け
ばよい。自分も表にはなかなか出てこないが、才能
のある建築家を何人も知っている。


時代に合えばもてはやされるが、そうでなければ
見向きもされない。それでいいではないか。


でも、まわりの人を見ていると、カテゴライズしたい
人、カテゴライズされたい人ばかりである。


自分はできる限り、カテゴライズせずカテゴライズ
されない人生を歩んでいきたいと思う。