rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

ピッチャーなのに球を投げないという生き方


昨晩、ビールを飲んでいたら急に眠気が差してきて、
8時ごろに寝てしまったのだろう。深夜に目が覚めて、
こんな変なことを考えてしまった。


自分の生き方はこれでいいのだろうかと考えながら、
まるでピッチャーなのに球を投げないという生き方を
しているのではないかと思った。


ピッチャーは試合でマウンドに立つと、ふつう、球を
投げるものである。それを前提に、直球でいくか、
変化球でいくか、配球を考えていく。


でも私の生き方は、マウンドに立っても球を投げない
というスタンスを取っているように思える。投げない
と試合が始まらないし、始まったと仮定しても終わり
がない。


既成の思考の地平では、ピッチャーは球を投げるもの
だという前提ですべてが構築される。私の場合、その
前提を覆すようなことをしようとしているような気が
する。球を投げないという選択、それはおそらく野球
というものはそもそもどういった競技であるのかという、
とても根源的な問いかけを提出するものである。


同じように、建築の中でも、ふつうこう考えるものである
といった常識のよなものがある。その常識に乗っ取って
進めていくと、生きるとは何か、家族とは何か、人間とは
何か、自然とは何か、都市とは何かなどの、本当は
じっくり考えるべきことがないがしろにされてしまう。


すでに引かれた線路を逸脱しないで、形式だけトレース
して生きていっても、その先にハッピーはあるだろうか。
その人それぞれのハッピーは、根源的なことを考える
ことではじめて手に入るものである。


ということで、これからも私はマウンドに立っても球を
投げないピッチャーでいつづけようと思う。


ずっと投げないでいると、まわりの人たちが自分たちの
あたまで考え、自発的に行動し始めることもある。