rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

当事者であること


前にも書いたかと思うが、小学生の頃、この
世の中には自分しか存在せず、回りの世界の
人たちや事象は芝居の書割のように自分とは
関係なく自動的に動いているのではないかと
考えていた時期がある。


この考え方は、自分が当事者として積極的に
世界に働き掛けても何も動かない何も変わら
ないという、ニヒリズム厭世観によるものだと
いえる。その頃、他人とのコミュニケーションに
悩んでいたのかもしれない。


こうした考え方でしばらく生きてみたものの
自分の回りをただ通り過ぎてゆく事象をなん
の関係もなく、ただ見ていることのつまらなさ、
虚脱感、孤立感に耐えられなくなって、積極的
にクラスのみんなや先生と関わるようになった。
具体的には児童会長や学級委員長などになり、
ものごとを進める当事者として社会と関わり
始めたのである。


当事者として社会と関わることは、意思さえあれ
ば自由に発想・行動できるが、なにか失敗した
場合、その責任を果たさなければならないこと
も、同時に意識しておかなければならない。


仕事でも遊びでも、当事者として自由を行使し、
その責任も果たす覚悟を持って生きていくこと、
これこそが、リアルでおもしろく人生を生きて
いくことなのではないかと思う。


●写真は、事務所菜園のトマト。直径6cmくらい
になった。赤くなったら収穫だ。