rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

人は器でしかない


人間として器、器量、などのように人の力量
を実体としてではなく、入れものととして表現
してきた昔の人たちに敬服させられることが
ここのところ多い。


建築のデザインなどで自分を追い込んで
いくと、最終的には自分とはなにか、人の
存在とはなにかというところにたどり着く。
そして、自分の中には何もないことに気付
く。ものごとを成し遂げていくときの原点で
ある。自分の中には何もないのだ。あると
すれば、外から入ってくるものをいかに
オープンに受け入れ、よりおもしろいもの
にアウトプットしていく器としての自分だけ
である。


これを時系列で考えていくと、世の中に
対して、極論を言えば、個人では何もでき
ないということだ。自分としては、建築の
師匠から学び盗み取ったものを、世の中に
広げ、弟子たちに伝えていくこと。ただそれ
だけである。時系列でものごとを伝承して
いくためのシャトルでしかないのである。
こう言ってしまうと寂しいような気するが、
このことこそが個人として社会に属する
ことであり生きる意味でもある。


みんな自分のなにかがあると思い込み過ぎ
である。そう考えている限り、自分も他人も
ハッピーにはなれない。


あらゆるドアを外に開き、同じ方向性をもつ
人たちと関係しつながっていくこと、これは、
いま人々がまじめに考えてみなければなけ
ればいけない重要な問題であるような気が
する。