rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

分かるということ


世の中には、あまたの事象、現象が混然と
して複雑怪奇な様相を呈して存在している。


そんな中で、なにかが分かるということは
どういうことだろう。おそらくすべての事象や
現象を把握しとらまえることは全くの不可能
というしかない。ならば、世界を理解できる
ことは到底なく、不毛なことなのだろうか。


いや、生きているから、なにかできることが
ある。できることがあるから、生きているの
だ。でも、こんなちっぽけな人間になにが
できるのだろうか。


少なくとも、自分の周辺の分かりやすい
こと、自分が生きているという存在の輪郭
はボンヤリながら確認することはできる。
人間には、そこからしか何も始められない。


つまり、自分の周辺のことと、外部の理解
できない世界、の2つの領域があるとすると、
その関係性だけは確認できる。


なにかが分かるということは、自分がなに
を知らないか、なにが分からないかを知る
ことにある。かなり逆説的な話だが、これ
しか世界をとらまえる方法はない。