rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

身体で考える


昔、村上龍さんが頭で考えるのではなく身体の
細胞で考えるというようなことを小説かエッセイ
で書かれていたことを思い出す。


考えることは当たり前のように脳で考えるもの
とされている。しかし、そうとも限らないのでは
ないかと思えることが時々起こる。自転車に
しばらく乗っていなくても、乗ることができるの
は脳のみの指令だけではなく、身体の細胞が
記憶したことを繰り返し身体を動かしていると
しか思えない。若い頃っていたスポーツもいま
やってもそこそこできるのはそのせいではない
か。建築などのデザインをしていても、脳だけ
ではないなんらかの身体性がデザインをデザ
インたらしめているように思えてならない。


内田樹さんも、脳は無時間モデルだと言われ
ている。名越康文さんもその対談で悩みや苦し
みを最後に受け止めるのは身体しかないと言
われている。(14歳の子を持つ親たちへ<新潮
新書>)


脳のみで考えられたことは、イデア的なもので
あり、現実的な実体がないことが多い。建築の
デザインのアイデア段階では身体性を伴わない
頭でっかちのものしか出てこない。脳だけでは
なく、身体性も伴って考えていくことでいろいろ
なことが深いものになっていく。


身体の細胞で考えるということは、脳を構成する
細胞も、身体を構成する細胞ももともとは同じで
それらが身体のそれぞれの特色のある細胞に
なっていくということを考えるとあながち間違いで
はないように思える。


また、このあたりのことが哲学的主題になる時代
になってきたような気がする。