rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

器という考え方、そして自分探しと夢について


人を評して、器が大きいとか小さいとかと
いう表現が使われる。中身のことではなく、
入れ物の大きさについて語ることでその人
の能力が表されている。


これはなにを意味しているのか。蓄積さ
れた中身はなぜ語られないのか。中身は
過去に形成された結果の集積であるとも
言える。つまり、今にもなんらかの影響
を与えているものの、今を切り開いていく
能力はそこに焦点を当ててもなにも見え
てこない。


入れ物が大きいということは、もしその人
があることに命がけで挑み諸問題を解決
していこうとしたときに、いったん貯めて
処理する情報量が多いということを意味
している。その人そのものに蓄積されて
いるものには大きな意味がなく、重要なの
はライブでものごとを処理していくときの
ベクトルであり処理量なのである。


過去の実績や栄光に頼ってはいけない。
そこにはいまを生きていくための意味は何
もないのだ。自分の中にはなにもないこと
を意識し考え行動していくことでその意味
が生まれてくる。


世の中で、若者たちはいまだに自分探しを
行い続けている。そして、大人はいつも子供
に夢を持ちなさいという。


自分探しは、いまここにいるダメな自分は
本当の自分ではなく、どこかにダメではない
自分がいる。その自分を見つけに行こうと
いうものである。これはいまここにいる自分
がダメなのは本当の自分に出会えていない
からであり、それも見つければ全て解決
すると考えていることを意味している。よって、
いまの自分の身の回りに起きている諸問題
に対してなんら責任を取る必要などはなく、
どこかにいる本当の自分が解決してくれると
信じ、ただ問題をアウトソースしているだけ
のことなのである。


夢というのもいけない。夢とは永遠に実現
されないもののことをいう。これも問題を
夢にアウトソースしているだけなのだ。苦労
して仕事を実現してきた過去の足跡を振り
返って見るとき、はじめて「夢のようなもの」
を実現できたのだと実感できるもの、それ
こそが夢の実体である。


とにかく、自分のあたまで考えて行動して
ベクトルの強度を鍛えていこうと思う。