rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

空間 時間 設計

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ジークフリート・ギーディオン著の「空間 時間 建築」のような表題である。

 

建築の設計、とくに住宅の設計はとてもおもしろい。うちの事務所では、基本設計で6~7案のプランを提出する。設計当初は、敷地を見に行って、周辺環境を確認する。つぎに、クライアントからのご要望をヒアリングする。この時点では矛盾することも許容しながら受け止める。第1案では、クライアントの要望を100%近く満足させ、しかも空間デザインを織り交ぜたものとする。案を展開していく中で、取りつく島としての案を残しておく。第2案以降は、ご要望の要件の中で外してもいいものを聴き取っていく。固定観念によって要望がつくられていることが多いからだ。要件を外すことで豊かになるものを生み出していく。この時点では、設計がどのように進むかわからない。第3案になると、案の展開の可能性が見えてくる。案の全体像を見据えながら、第7案まで提案していく。クライアントは第7案が提案されるまで全体像は見えない。最後の案を提案するときに案の全体像を説明する。その説明を進めていく中で、どの案がクライアント家族にマッチするかお互いで見定めていく。このように、初期はどのように進んで行くかわからないところが不安でもありおもしろみでもある。

 

ここまで、住宅の設計の時間的な流れを見てきた。これを人の人生に置き換えてみると、いまを生きているその瞬間はこれまでの過去のものを理解しているとはいえ、これから未来がどのようになるか分からない。しかし、それから5年とか10年とかすると、その時の世界や社会の状況がどのようなもので、その中でどのように生きようとしていたかが分かってくる。これからどうなるか分からない状況にいるからこそ、人生はおもしろいのだろう。いま、ある時代状況に生きているかなんとなく理解しているつもりだが、実はなにも分かっていない。それはあとから分かることなのだ。

 

歴史というものは過去を総括するものだが、未来にもかたちを変えて同じようなことがしたことが起こる。未知の新たな時間を生きていくにはとても必要なものだといえる。

 

建築も人も、空間と時間の中変化の中で、いまという未知の海の中で舟を漕いでいかなければいけない。住宅の設計のことを考えながらこんなことを考えた。