rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

自分のあたまで考えること


明治時代、殖産興業や富国強兵政策の中
で、一部エリートを除いて、工場労働者と
しての国民の教育は何も考えないでお上に
従う国民を大量生産するためのものであっ
た。それが表向きはリベラルを装いながら、
基本的なところで改変されることなく今日
まで続いている。


小学校、中学校、高校、大学、さらに大学
院まで、それらの教育方針が一見そうとは
見えないように連綿として継続されている。
学生運動の時代、一時期その方向性に揺り
戻しがあったが、全共闘が敗北して以来
もとの教育の流れに戻ってしまった。若者
を政治的にコントロールするのにはこの
やり方がもっとも効率的である。合わせて
コマーシャリズムの世界でも、何も考え
ないで与えた流行に思うように従ってくる
若者は都合がいい。そうした意味で教育と
コマーシャリズムは方向性を一致させること
で手を組んできたともいえるかもしれない。


これらを象徴するのは、「就活」や「婚活」
といった「○活」と名のつくものは、教育と
コマーシャリズムが手を組んだものとしか
思えない。受験も「受活」といった類のもに
なってしまった。「○活」と付くものは考え
させないでコマーシャリズム側が主導で
若者を操るためのものなのではないか。


今の時代こそ、自分のあたまで考え行動し
ないとなにも世の中はよくなっていかない。
自分で考えないと、なにかをよくするため
の対話も成り立たない。仕事だってそうだ。
自分のあたまで考え行動することができて
初めておもしろい仕事になるのだ。それ以外
のものなんてつまらなくてやる気がしない。


自分のあたまで考え、それをからだにしみ
込ませて理解し、自分のからだで行動して
いきたいと改めて思う。