rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

差異を生産する機械としての貨幣


きのうは午前中、板橋方面の住宅の設計契約、
そしてクライアント打ち合わせ。


午後から、鎌倉方面の改装工事の打ち合わせ
のために出掛ける。途中の駅で工務店専務に
スタッフとともに車でピックアップしてもらい
現地に向かう。夕方まで、クライアントの方に
どのように改装したいかを具体的に部屋を実際
に見ながらうかがう。


帰りも結構遅くなってしまったので、途中の
駅前のひものやでお酒を飲みながら専務と
景気悪化に向けて今から仕込んでおくしくみ
について話し合う。次への展開をいま仕込ん
でおかなければ先が読めない。また、飲んで
しまった・・・。


きょうは、朝風呂に入りながらお金のことに
ついて考えてみた。まずは、莫大なお金が手
に入ったら自分ならなにをしたいか。なにも
思いつかない。少なくとも自分のためにお金
を使うことはあまりイメージできない。自分の
やりたい仕事がちゃんとできていれば、そこ
そこのお金があればいいと思う。ときどき贅沢
できればそれでいい。持っていたら持っていた
で、それを維持管理するのが面倒くさい。そう
いった意味で、不動産も必要ない。


では、なぜ人々は大金をほしがるのだろうか。
ある程度のお金を持って、なにか消費活動を
すると、購入したものにすぐに飽き足らなくなり、
もう少しいいものが欲しくなってくる。商品は
人の購買意欲をそそる差異を生み出すという
性質を持っている。差異は際限なくどこまで
も続き、消費者は永遠に満たされることはない。
このように理論的には貨幣は商品に姿を変え
差異を生産し続け、永遠に人に満足を与える
ことはない。だから、人は永遠に満たされない
からこそ、際限なくお金を求め稼ぎ続けるの
だろう。


貨幣の出発点は、ものの価値を計り、平等な
ものの交換をするために発明されたものだった。
いわば、平等や自由を獲得するための道具
だった。いつの頃からか、貨幣経済という仕組
みの中で、商品を介して人々の欲望をそそり、
差異を生産する機械に成り下がってしまった。


いまこそ人は、自分のハッピーの尺度を明確に
取り戻す必要があるように思えてならない。商品
の差異には幸せはない。他人との発展的な
コミュニケーションの中にしか人間のハッピー
はないと言い切ってもいい。


自分の仕事にしても、そのハッピーを実現させ
るためのメディアでしかないともいえる。


そんなことをバスタブにつかりながら考えた。