rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

超私的でも、超公的でも・・・


自分がものを考えるときのことを思い出して
みる。とくに建築だと、立ち位置をいろいろ
変えてみることを意識的にしている。私的
にも、公的にも、できるだけ極端に・・・。


建築の設計においては、もちろん依頼主
の意向が第一であることは言うまでもない。
それらを十分満足させることが大前提と
して、その他の専門的な部分については、
最終的なフィルターは、自分の感性に
ゆだねる。もし自分がこの家に住むなら
どうするのがいちばんいいかという超私的
な判断である。


芸術においては、より顕著である。自分の
フィルターを通して世界の一部を切取り、
超私的に表現しながら普遍性を獲得する。
私欲からは普遍性が生まれるかどうかは
怪しいが、このように超私的な部分は、公的
なところにつながっている。


また、超公的に考えを突き詰めていくと、
いきなり、超私的なところに行き着くこと
もある。ファシズムは、国家社会主義という
名称で世の中に登場してきた。超公的を
目指すフリをして、内実は超私的な欲望を
満足させているに過ぎなかった。ソビエト
スターリンの関係にも同じようなものを読み
取ることができる。


そう、超私的と超公的は端と端がつながり、
円環を描いているのである。


●写真は、ちょっと分かり難いが庭の枇杷
の花。こんな寒い時期に花が咲くとは知ら
なかった。