rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

常識やセオリーをいったん疑ってみる


世の中には、常識やセオリーという、世間で
認められた、なにかをやるときの「確実な」
方法がある。


常識やセオリーの中には、もちろん生活する
上で助かるものもたくさんある。なぜなら、
こうしておけば世間のだれもが文句を言わ
ないというのが、常識であり、セオリーである
からだ。


しかし、世間で認められたことというものは、
すでに、世の中で固定化されものであるという
側面も持っている。この場合、現在進行形で
更新されているものに、それらを適用すること
はかなり難しい。このとき、常識やセオリーは、
いわば、「化石化」されてしまったものなので
ある。


なにか、現在進行形でなにかをつくり上げて
いる人にとっては、それらは何の役にも立た
ない。


なにをおこなうにしても、人間がいまを生きて
いる限り、現在進行形的な側面をいつも抱えて
いる。いくら同じことを繰り返しているとはいえ、
時間も環境も移行しているのである。


なにごとに関しても、常識やセオリーを疑って
みることで、新しいなにかを見つけ出すことが
できるかもしれない。


●写真は、事務所の庭の梅の花。春は確実に
近づいてきている。