rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

贈与的なるもの

f:id:yoaa:20211211083340j:image小学校、中学校、高校、大学、などの教育制度は、単にお金で教育を買うという商品的なものではなく贈与によって成り立つものである。

 

行政を中心とした社会を安定させる制度も、国民がお金を払ってサービスを買うようなものではなく、いわば生活を安定させるための安全保障的なものでこれも贈与的なものである。

 

文学、アート、演劇なども、現実はお金を介して買うという状況になっているものの、数値的に還元できるようなものではなく贈与性をはらむものである。建築デザインも同様に贈与的なものによって成り立っている。

 

こうした文系的なものが排除され、数値還元可能なものに置き換えられようとされている。数値還元できないものは無駄なものと考えられているようだ。これは、新自由主義グローバル資本主義と親和性が高い考え方である。医療行為もまた贈与性の高いものである。

 

これまでの、教育政策を見ても、「ゆとり教育」は、教育にゆとりを持って自分のあたまで考えて自らで行動しようというとても優れた考え方だったのだが、制度化されたことでそれは死んだ。制度化は数値還元化を目指すものであるからだ。これによって、贈与的なものは失われた。いま進められているグローバル教育も制度化されたことで、本来の目標が失われてしまうような気がしてならない。

 

いますぐには役に立たない贈与的文化系的なものは、人々が不足の事態に対処できる教養を育むものである。目先の成果だけを求めるのではなく、今後発生するかもしれない不足の事態に対応できる教育、しくみをつくり上げていかなければならない。奇しくも、現在の感染症下において、目先の成果主義がいかに脆弱なものかが明らかにされた。目先の経済合理性に基づいて、病床数を減らし、看護体制の最小化によってパンデミックがもたらされた。今後の贈与的なものの見直しが必要である。