rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

見えにくい時代


明治維新以降の日本で、現在はもっとも
状況が見えにくい時代のように思える。


明治から昭和初期までは、欧米列強の
国力に追いつけ追い越せという国家的
目標に向かって国民も同じ方向を見て
いて努力すればなんとかなった。


戦後も、復興と同時に今度は経済成長と
いう目標に向かって国家も国民も邁進
していた。このように、明治から大正、
そして昭和までは、とりあえず自分の
あたまで考えなくとも努力すれば何と
かなった。


ところが、経済的な頂点を極めて凋落の
道を進んでいくにつれ、国家に寄り添う
必要もなくなり、国民それぞれが束ね
られることなく、混沌の大海に投げ捨て
られてしまった。人々は目標や方向性を
見失い、現実的な路頭あるいは精神の
路頭をさまようことになる。


建築でいうと、明治から大正までは欧米
の様式を吸収実践する時代であり、大正
から昭和50年くらいまでは、モダニズム
日本的解釈の時代。近代と寄り添うことで
安定した時代であったといえる。昭和50
年代後半以降は、ポストモダンという安易
な歴史回顧主義や、デコンという近代を
解体する運動が起こった。それまでは、
少なくとも寄り添うべきなにかがあった。


現代はどうか。なにに基づいてつくって
いけばいいか全く見えない状況に陥って
いる。自由といえば自由だということが
できるが、建築そのものの現象をデザイン
していてもその先になにも見えてこない。
回りを見渡してみても、建築内建築的な
デザインばかりである。30代の若い建築家
たちの言説を聞いていると、今の時代に
合致した、建築と社会、あるいは歴史との
新しい関係性を模索し始めているようだ。


重要なのは、回顧的な思考による過去への
後退ではなく、現在に合った建築の歴史的
社会的な連続性を見つけていくことである。
難しい時代だが、それだからなおさらおも
しろい。