rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

身をゆだねてみる


小学生のころ、海で一度だけ溺れかけたことを
思い出した。浅瀬を沖に少しだけ行ったところ
に急に深くなっているところがあった。そこで
足を取られ溺れそうになった。溺れる状態の
中で、このまま波に抗っているとほんとうに溺
れてしまうと思った。そこでとっさに、波に身を
まかそうと考え体から力を抜いた。そうすると
体が浮かび上がり楽になった。水に身をゆだね
ることで助かったのだ。それ以来、泳いでいて
波や潮の流れに巻き込まれたとき水に身をゆだ
ねることを覚えた。


私は、無謀にも28歳のときに建築設計事務所
設立し独立した。独立したてのころはデザイン
で試してみたいことが頭の中にたくさんあった。
クライアントからの依頼があると、それらのやり
たいことを依頼主の意向に抗うように、やってみ
たいデザインを提案し続けた。このような状態
は決して幸福な状況ではない。いわば、設計者
とクライアントが対立している状態だからだ。


35歳くらいころからだろうか、クライアントの要望
をすべて受け入れながら設計デザインしてみよう
と考えるようになった。要望をよ〜く読み込んで
いくと普通ではないことがたくさんあることに気付
いた。それらの要望を膨らませて展開していくと、
おもしろいデザインになることが分かってきたのだ。
クライアントの要望を受け入れて、それらを変換し
展開していくことで建築をつくることができる。クライ
アントの要望の海に身をゆだねて建築を設計デザ
インする。そうすることによって、デザインが陳腐
なものになることはない。設計者とクライアントが
同じ方向を向き一緒になって建築をつくり上げて
いく。今の自分の設計スタイルが確立されたので
ある。様々な要望も自分という建築家のフィルター
を通して変換される訳だから作家性がなくなる
わけではない。


対立はあまりいいものを生み出したことはない。
対立することなく、関係性の海に身をゆだねて
その関係性をよりよいものにしてく、そんな生き
方をこれからもしていきたい。そうすれば建築も
さらにいえば世の中もよりよいものになっていく。


小学生のこに溺れたかけたことを思い出して
こんなことを考えた。