rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

自分のあたまで考えること

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このブログでも何度も書いてきたテーマである。10年前くらいからだろうか、うちの事務所に入ってくるスタッフの質がずいぶん変わったように思う。自分のあたまで考えることが不得意な人が増えてきたのである。

 

大学2年生に6年間設計製図を教えた。100人程度の学生を5人の講師が20人くらいを担当して、毎週学生のスケッチの進捗状況を確認しどう考えていけばいいかについてアドバイスするという授業であった。自分が学生のころは設計製図というのは、課題の提示時と提出時の2回しか教授と会う機会がなかった。それと比べると今の授業の仕方は学生にとって親切でとてもいいものなのだろう。教えていてふと思ったことがある。学生と話す中で講師は、どう考えていけばいいかという方法論を無意識に伝授してしまうことになる。クリエイティビティの観点からいえば、方法論そのものを考えるということこそがクリエイトすることである。それを自分のあたまで考えるのではなく、講師のあたまを借りて考えるというところは、ちょっといただけないものがあるように思う。

 

自分は前から大学までの学校で身に付けるべきことは、知識そのものではなく、社会に出て未知なものに出合った時に、どう考えどう学んでいけばいいかという方法だと常々書いてきた。ゆとり教育は、学業にゆとりをもって自分のあたまで社会にどのように向き合っていけばいいかを考えるものであった。また、グローバル教育は、外国人と交わり外国語を使ってコミュニケートができる国際人を生み出していくというものである。いずれも優れた理想のもとに考えられた教育制度である。ではなぜそれに反した人々を生み出し続けたのだろうか。それはおそらく、社会と関わること、外国人と交流すること、そのものを目的としてその方法論を教えたのがいけなかったのではないかと思う。そもそも、自分のあたまで考えなければいけない方法論は講義などで教えてはいけないのである。こうして文科省が行ってきた理想的な教育制度はことごとく失敗してきた。方法論は制度化すると死んでしまうのだ。どうすれば、自分のあたまで考える人を生み出していけるのだろうか。方法論以前のメタな状態で自分で方法論を組み立てさせるような講義ができるといいのだがとても難しい。自分たちに時代のようなほったらかし授業がいいとは思わないが、とにかく自分のあたまで感がなければすぐれた作品は生み出すことができなかった。教育というのは本当に難しいものである。

 

どのように考えればいいか、どのように学べばいいかを、自分のあたまで感がられる人を生み出していかなければ、国家的にも産業的にも文化的にもこの国はだめになる。自戒を込めてこんなことを考えた。