rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

学校で学ぶべきこと

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小学校、中学校、高校、大学、ある人は大学院と、16年以上人は学校というところで学び続ける。さて、なにを学び身につければいいのだろうか。

 

高校以下の学校で学ぶものは、教養と言っても差支えないだろう。ふつうに社会生活送るために必要な知識である。中学までは基礎的なものだが、高校になると大学で学ぶための準備と言ってもいいかもしれない。

 

大学、大学院では、哲学、社会学などの高校より上位の教養を学んだ上で、専門教科を学ぶ。理系の専門教科は、その後の仕事に直接関係しているものである。しかし文系の専門科目はどうだろうか。法学や経済学や経営学は仕事に関係してくる部分はかなりある。しかし、文学、哲学、社会学などは、教員にならない限り社会で直接関係してくるものではない。ではなぜ、社会生活にあまり関係のない科目を学ぶのだろうか。つまりこれは、教養はなぜ身に付けなければいけないかという問いにつながってくる。

 

人生を生きていると、仕事でも日常生活でも毎度毎度経験したことのない思わぬことに何度も出くわす。初めての問題に対処するのには苦労する。しかし、その問題を深く読み込むと、別の問題と類似していたり、いくつかの問題が絡まり合っているようなことが多い。深く読み込むには、教養の力が必要になってくる。教養とは、複雑な社会のあり様を分類研究するものである。そこには、さまざまな問題に対処するヒントが隠されているといえよう。

 

教養科目や専門科目には、複雑に絡み合ったさまざまな問題に対処していくためのエッセンスが隠されている。それは、「どのように考えればいいか」ということと、「どのように学べばいいか」の2つではないかと思う。社会生活を送っているといろいろなことが起こる。その新しい問題、不測の事態に対処するには、前記の2つのことを身に付けていれば大抵の問題は読み解くことができる。

 

学校で学ぶべきことは教養。分かりやすくいえば、どのように考えればいいか」ということと、「どのように学べばいいか」ということではないかと思う。学校の教育目標からこうした「考える」ことが抜け落ちてしまっているように思えてならない。

 

今日はいつも思っていることをつらつら書き連ねてきた。そういう自分はいい歳になってきたのだが、学生時代と変わらずさまざまな分野の本を読み漁っている。常に教養を身に付けたいと考えている。未知の問題、不測の事態にぶつかったときに、思考停止しないために・・・。