rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

見えざるものを構想すること

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新自由主義や末期的な資本主義によって、社会や経済におけるものごとは多くのものが表層化商品化され、その奥にあった精神的なものは剥離された状態が蔓延している。そのものごとの断片化が人々に目に見えない不安感をもたらしている。

 

芸術、文学、音楽、建築の才能のある作者は、表層的なものの裏に見えざる人々の想像力を喚起する次元を創出している。建築でいえば、プランニングにおける機能的な処理や表面的なデザインは表層的なものであるが、才能のある建築家は次元の異なる空間やデザインを構想することができる。一般の人は、ただ普通に眺めているだけでは何も感じないが、家族とともに四季を過ごす中で、何がとは表現できないがそこで感じることができる快適さや気持ちよさはその空間やデザインがもたらしくれるものなのである。芸術、文学、音楽にしても、才能ある作者はこのような見えざるものを構想することができる。この見えざる次元こそが人々に快適さをもたらし、人々の想像力を喚起し生活を豊かにしてくれるものだということもできよう。

 

いま教育政策として、小学校、中学校、高校、大学というすべての教育過程で、この見えざるものを構想する教育が排除されようとしている。大学では、文系や芸術系はいらないものとされ、即効的な効果のある理系を重視していこうという動きがある。これから、新自由主義や資本主義が衰退していく中でもっとも必要となるのは、見えざることを構想する教育であるに関わらず、それに逆行する教育が行われようとされている。

 

見えざるものを構想する仕事や教職についている人は、この逆行した動きに異議を唱えていかなければいけないと思う。そして、人々の協働的関係性を再構築するために、見えざるものを構想する教育を復活させ強化していかなければいけない。自分がいつもいっている、「どう学び、どう考える」かという「自分のあたまで考える」ことにつながっているかもしれない。