rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

わかるということ

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「わかる」は、「分かる」と書く。またもの分かりがいいことを、「分別」があるという。目の前の事象を理解するには、目の前で起こっていることを類似するものそうでないものに「分ける」ことによって「分かる」のだろう。

 

学問というものも、その「分かる」ということで成り立っている。もっともわかりやすいものは、博物学だろう。英国が世界中の植民地から集めてきた物品を理解するためにつくられた学問である。似ているものと似ていないものをいろいろな階層に分けて分類し秩序立てて整理することで「世界」を理解するのである。動物学、植物学もこれに類する。

 

物理学にしても、宇宙を理解するために物理的な法則を導き出し、分解分類し「世界」どのように成り立っているかを理解するための学問である。化学も然り。数学も、数学的法則を見つけ出し分類し数学的「世界」を理解するためのものである。

 

 医学は、人間の部位や機能を分類し理解し、病気になったときにどのような処置をすればいいかを考える学問である。

 

地理学は、地理的特徴を分類し、その特徴を導き出し地理的「世界」理解する。歴史学は、歴史的政治体制などを分類し歴史的「世界」を理解する。社会学政治学も然り。

 

このように人間が発明した「考える」ということは、理系文系関係なく、「分ける」ことで「分かる」ことによって成り立っている。普段の生活や仕事も、「分ける」ことで「分かる」ことによって営まれているのである。