rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

客観性という神話


私が独立したのはバブルの末期1988年であった。
友人たちはバンバン大きな仕事をこなしていたが、私には
その頃あまり仕事がなかった。


そんなことで、当時はやりのリゾート法関連の建築部門の
レポートの仕事を受け、日本各地のリゾート開発のレポート
づくりのお手伝いをしていた。


そこで毎度毎度思うことがあった。
建築計画にいたる分析が数値に還元されたデータによって
なされていたのだ。建築の配置計画においてもメリット
・デメリットを各項目に沿って数値化し、数値の高いものを
採用するというやりかただ。本当にこんなのでいいの?と
いつも思っていた。


たしかにあの時点で客観性を示せと言われたら、その方法しか
なかったことはわかる。まず数値化する時点で非客観性が
入り込む。なにを数値化するかということにも恣意性がからむ。
だとしたらその客観性は無責任なものだとしかいいようがない。


ふつう数値や事実にもとづくものにこそ客観性があるとされている。
ほんとうにそうなのだろうか。
私は、それがすべてだとはいわないが、客観的真理は探求者の
主体的探求によってのみもたらされるものではないかと思う。
いまでもそんなことを考えている。


ある一定レベルを超えたスポーツ選手は、主体的な追及を
通り越して、客観的真理を見出しているのではないかと思う
ことがある。インタビューなどを聞いていると言葉の端はしに
この人はふつうの人たちには見えないものを見ていると感じる。


そんなこんなで、マイケル・ポラニー著の「暗黙知の次元」を
もう一度読み返してみようと思う。(写真)