rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

視るということ


子供のころ、小学校高学年だっただろうか、
自分に視えているものと、他の人に視えているものは、
もしかして違うのではないかと考えたことがあった。
いま考えてみても、厳密にいえば、視ている個体が
異なるのだから、視えているものは違うのは当然だ。


子供のころは、自分には視えないが、人にはこころが
視え、もしかすると透視能力のある人も身の回りに
いるのではないかと恐れていた。


おそらく、その頃は視えるものは、絶対的に共通のものだ
という思い込みがあるからこそ、視えているものが違う
ことを恐れていたのだろう。


視えるものは、絶対的なものでなく、視る人が違えば
異なるイマージュなのだ。それぞれの人が視えている
ものを確認し合うために「言葉」は生まれたのだろう。


優れた美術家や建築家は、一般の人たちの視ているもの
とは違う異次元の空間を視ている。視えているものが
違うのはごく当たり前のことなのだ。視ることのみならず、
聴くことなどの五感は、人によって異なる。だからこそ、
いろいろな考え方、見方、感じ方があり、この世の中は
おもしろいのだ。