rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

1960年代生まれという世代


私塾のすすめ齋藤孝/梅田望夫著(ちくま新書
を読む。著者二人に共通するのは、1960年生まれ
ということだ。ちなみに私も1960年生まれだ。


1960年代生まれには、時代的にある特長がある。
一つ上に世代の全共闘世代(団塊の世代とも呼ば
れる)、一つ下の世代は70年代生まれである。


全共闘世代は、学校側と戦い学園に自由をもたら
してくれた。それをタナボタ的に享受していたのが、
1960年代生まれである。自分たちが積極的に勝ち
取った自由でもないのにそれをふつうのこととして
生きてきた。闘争についてはかなり冷めた世代で
ある。ゆえに、上の世代からは、「シラケ世代」と
軽蔑的な名称をつけられた。70年代が思春期を
迎える80年代には、学校は荒れ、それに伴い管理
教育が強化されていく。


このように、60年代生まれは、上下の世代から見る
と、左にも右にもつかないどっちつかずの曖昧な
世代と捉えられてしまう。


いま、なぜ、60年代生まれの人たちの言説が際立
っておもしろいのだろう。私の仮説だが、どっち
つかずという、ゆるぎないものとしてなにかを信
ずることもなく、ものごとは移ろっていくものと
考えている。なにかを信じるんではなく、考え方
を考えるという視点に立つことができるところが、
強みなのかもしれない。こうした冷めた視点を持つ
この世代は、ある意味、真のコスモポリタンなの
かもしれない。


とくに、2000年からの大きな変革の流れの中で、
古い価値観にとらわれることなく、冷めた目で
時代を読み取っていくことができる特殊な世代
なのかもしれない。


いまこそ、60年代生まれの人間が物申すべきとき
でもあり、積極的に行動すべき時代なのかもしれ
ない。昨今、こんなことを考えている。


同じ60年代生まれとして、建築の世界で古い価値
にとらわれない、新しい枠組み、しくみ、考えを
どんどん提出していきたいと思う。


いまは、そんな見えざる価値観をさがすべき時代
なのかもしれない。