rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

人の中にはなにもないのかもしれない・・・


自分の中にはなにもないのかもしれないと、
急に不安になることがある。そんなとき、
自分の中になにもなくてもなにも変わる
わけじゃなし、どうでもいいじゃないかと
考えると、気持ちが楽になる。


人間を中心にものごとを考えていくと、人
の中になにかがあることが前提となって
議論がすすめられる。ルネッサンス以降、
神の呪縛から離れて生まれてきた、人間
中心的な考え方であるヒューマニズム
真っ向から批判するような物言いになって
しまうが、神とは別の世界の存在を受け
入れるという考え方もあってもいいのでは
ないかと思うだけである。


この考え方は、科学というよりも、仏教に
最も近いのかもしれない。


昨今騒がれている、地球温暖化についても、
人間中心的な考え方が目に付いて胡散臭く
思えてしまうのは自分だけだろうか。この
問題は、もし人間が引き起こしているのなら、
そして人間の力で何とかなるものなら、積極
的に人間が関わって解決すべき問題だと
思う。


しかしそれは、人間のためだけにあっては
ならないように思う。この世界のすべての
存在のためにこそ、あることのほうがより
自然であるような気がする。


この議論の前提は、表題の、人の中には
なにもないのかもしれないという、考え方が
ある。最近、自分を省みて、うすうす、そう
ではないかということに気付くようになって
きた。


確かに、学んだ知識や知恵はあたまの中に
ある。でもそれはなにかの中心と呼べるよう
なものではない。もしなにかがあるとすれば、
これをこうしたい、このように生きたい、と
いったベクトルのようなものだけで、周囲の
環境によって、やるものごとに意味が生じ、
行ったものが仕事として周囲の人たちに認め
られる。そこで初めて場としての中心のような
ものが生じる。人間の生活や仕事というもの
はこのようなものだと思うようになった。


自分の中にはなにもないかもしれないという
不安を心にいだきながら、社会に関わって
いくこと、そうすることによって、より一層
世の中がしくみとして、関係性として見えて
くるのかもしれない。