rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

必ずだれにも居場所はある


世の中から、人がこころからはまれる居場所が
少なくなってきているような気がする。


人の居場所ってなんだろう。おそらく、他人や
社会と隔絶されているところは居場所とは呼ば
ないだろう。


居場所とはなんらかのかたちで他人と関係し、
社会と接点がある場所である。


他人や社会と関わること、それはただただ横に
いっしょにいるだけでは生まれてこない。


経済活動にリンクしない関係は、ほんとうの社会
的関係とはいえないような気がする。経済的に
関わりながら、社会と関わること、それは仕事を
するということでしか成り立たないのではないか。


近所付き合いや親戚関係、そして友人関係の
中では、経済的関係や本格的な社会的な関係
は生じてこない。会話や対話は、その会話や
対話のためのものとなり、そこからはなにも
生み出すことはできない。


こう考えてくると、生きていく上で社会と関わり
ながらおもしろいことができるのは仕事をする
ことしかないのではないか。自分のはまること
ができることを仕事として世の中にコミットして
いけばいいのだ。


きっとだれもがはまれることは必ずある。人
には、優れた点や欠けた点がある。優れたと
か欠けたという視点は、ある一定の考え方
から来るものだ。見方を変えれば、優れた点
もそうではなくなることもあり、また欠けた点も
優れた点になることもあり得る。


もし自分がはまれることができる仕事がいま
この世の中になければつくればいいだけの話で
ある。自分のはまれることは、ちゃんと自分の頭
を使って考えれば必ず見つかるし、それを仕事に
することも、その仕事をつくり出せば必ずできる。


どうせなら、自分のはまれることで世の中を
渡っていけた方がハッピーだと思う。