rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

教養について


教養とは、なにか実体があり記憶するようなものだと
思われがちだが、そうではないと思う。


器が大きいとか小さいとかという、器という言葉がある。
教養とは実体ではなく、大小複数の入れ物のようなもの
で、意志によって、初めてそれを発動することができる。


まずは、大きな器があり、様々な分野を納める中くらい
の器が複数あり、さらに細分化された小さな器がある
というふうに様々な分野の器が分類整理されている
状態のことを教養というのではないか。


ある不測の事態に遭遇した時、異分野中くらいの器や
小さな器を複数組み合わせて、そのいままで遭遇した
ことのない問題を意志によって解決していく。さまざま
な分野、さまざまな大きさの器をどれだけ広く深く持って
いるかが、教養の広さ深さにつながっている。


いまの教育制度には、上に書いたような教育をする
ための土壌がない。横断的に考え、新たな問題を
解決していくためには教養こそが最も必要なもので
はないか。


だからこそ自分も、日々本を読み、いまだ未知な知識
を取り入れている。学校での勉強より、卒業後の死ぬ
まで続けるこうした勉強こそ重要なのである。学校では
卒業後どのように学び考えていけばいいかだけを身に
付けるだけでも十分である。


それらは、特定の仕事や分野ではなく、地上に存在
するあらゆる仕事や分野に大きく関係しているもので
ある。


自分のこれからの勉強について考えるうちにこんな
ことを考えた。建築はもちろんその他人生に関わる
ことを、これからも更に深めていくためにずっと勉強
を続けていくことになるだろう。