rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

もうすぐ参議院議員選挙が始まる


いろいろな本を読んでいて著者たちの若者に対するコメントはだいたい一致している。いまの若者は極端に責任を取ることを避けているらしい。それゆえ、選挙では、投票しないか、投票しても現状を変える選択をしないらしい。よって、与党である自民党公明党に投票する人が多いという。

 

自分のあたまで考え自ら行動する。このことは自由を意味する。これらの自由を行使するときは、行使したものに対して責任が生ずる。若者の多くは、責任を取りたくないがために自由を行使しないのだという。確かに、責任を取って自由を行使する方が楽しいはずなのになぜそうしないのだろうか。

 

大学の非常勤講師をしていたときも、自分たちが学生だった時と比べて素直で従順な学生が多いと感じた。昔はもっと生意気な学生がいたと思う。そうした学生は、自らいろいろなことを学び、それを自信の礎として生意気な行動をとっていた。教授に盾突くようなものも少なからずいた。現在のこうした状況が生じているのは、社会と教育の仕組みによるものなのかもしれない。社会は新自由主義的に数値化されたもので動き、教育は商品としてとらえられ学生はお客様と化している。こうなると、大学でも最小限の努力で卒業しようという状況が生まれてくる。自分のあたまで考えて自ら行動するなどというまどろっこしいことはせず、先生の言うことを素直に聞きいい成績を取って卒業し、ちゃっかりいい企業に就職しようとする。

 

建築の設計は、自分のあたまで考え自ら行動することで初めて成立する。クライアントとの打合せは、リーダーとして司会をし一緒に考えながら建築をつくり上げていく。現場でも、同じで多くの職人さんをまとめ上げよりよいものをつくっていく中心にいなければいけない。建築家はあらかじめそのような立ち位置が宿命付けられている職業である。

 

今回の参議院選挙は、立て看板で立候補者を見てみてもピンとくるものがない。なにしろ、野党がバラバラに分裂しており多くの党が与党寄りでもある。投票行動が難しい選挙である。人物を見て投票するしかない。よりよいと思われる人が多い党を見ていくしかない。とにかく、この国がより良い方向に進んでいってもらえるような行動をとりたいと思う。