rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

自分のダメなところを認識するということ

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かなりオールマイティに近い人がいるかもしれないが、人はだれもが何らかのダメなところを持っているものだと思う。いま一般的には、運動能力が高い、学力が高い、コミュニケーション能力が高い、ということがいいこととされている。

 

これらを実現できている人からすれば、運動能力が低い、学力が低い、コミュニケーション能力が低い、がいいとされる社会においてはダメな人ということになる。まずは、物事は相対的であり、いまの常識が逆転することもありうる、ということも視野に入れておくくらいのポジショニングを取っておくと気持ちが楽である。

 

いまの社会においては、とりあえず前者がいいとされている。まずは、そこを起点に考えなければいけない。逆転の発想を考慮しなければいけないのは、そのあとである。いまの基準で自分のダメなところはなにかと考える。ダメなところを知るということの意味は、ダメそのものを良くしていくか、ダメ周辺のものを強化してダメそのものも強化する、といった何らかの対策を練ることできるということである。ダメを認識することなしには、いつまでたってもダメであるということになる。ダメを認識することはとても大事なことである。

 

自分のいいところを認識するということも、もちろん悪いことではない。しかし、周辺に対しての影響を考えると、いいろころはいいかたちで能動的に社会に浸透していくが、ダメなところは社会に対してネガティブになりいい影響を社会にもたらさないことになりやすい。いいところはそのままにしておけばいいと思う。ダメに気付くことに意識を集中した方がいい。社会を構成する人たちが自分のダメを認識し補強する意識を持つと、他人や社会に対して謙虚にならざるを得ない。これが、社会を人々が補完し合うものとし、いい意味でコミュニケーションが成立しやすい社会に近付いていく。

 

このような現在における常識にこだわり過ぎるのも先々の問題をはらんでいる。社会は移ろいやすいもので状況に応じて対応を変化させていく必要もある。また、先に書いたように価値観が全く逆転してしまうこともあり得る。これくらいのブレも視野の入れながら、自分のダメと付き合っていく。みんながそうしていくことができると、きっといい社会が訪れる。

 

昨今の混迷する国際情勢、混乱する社会情勢、信じがたい政治情勢を目の当たりにしてこんなことをこんなことを考えてしまった。