rat's eyes:脆弱なラショナリストの視点

脆弱なラショナリスト「建築家:岡村泰之」の視点

ことばと文字

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最近、何冊か読んだ本によって、「文字」について考えさせられた。もし文字がなかったらどうなるのだろうか。誰かのあたまにある知識を、他の人に伝えようとする場合、語りことばによって伝えなければいけない。それが人類が生まれてから現在に至る歴史だとしたら、起源から順を追って時間をかけて語り、ことばで伝えていかなければいけない。高校の歴史の授業を思い浮かべてみるといい。先生が1年をかけて歴史を教えていくが、そこには板書の文字、文字ベースの教科書が介在しているので1年で終わる。語りことばだけだったら、そんな短期間には終わらない。

 

もし、文字が存在しなかったら、歴史を隅々まで知る賢者が初めから終わりまで語りことばによって、長時間にわたって語ることによって、次世代の賢者にそれを伝える。語りことばの中では、歴史というものは編集が効かないのである。

 

文字の発明によって何が変わったのだろうか。語りことばであった歴史を文字に置き換えると、一瞬にして歴史の全貌が見て取れる。また、それぞれの時代にフューチャーして歴史を見ていくことができる。つまり、これまで時系列でしか伝えられなかった語りことばによる歴史が、文字に置き換えることによって編集可能なものとなったのである。

 

文字の発明によって、歴史のそれぞれの時代の出来事を留め置くことができるようになり、「歴史」という概念が生まれたのだともいうことができる。また、文字は同時に多くの人にものごとを伝えることができる。印刷文化が進歩するとその数は何倍にも大きくなる。

 

文字によって書かれたものは、何千年も前にそれを書いた人に出会うチャンスをくれるし、同時代でも決して出会うことのできな人と語り合いその考えを知ることができる。文字によって綴られた本というものは、時空を超えていろいろなもの出合うための窓のようなものなのである。

 

だから自分は、いつも時間があれば本を読む。ある本を読むと、次に読むべき本が見えてくる。これらの連なりと折り重なりが教養というものを育むのではないかと思う。